昭和43年7月13日 朝の御理解
7月、(?)に、昨日の昼の御祈念の時に頂きました御理解、「信心してみかげのなき時はこれぞ不思議なる事ぞ」という、御神訓に元づいて、御理解頂いたんですがね、とばに書いてあるその通りでございますがね、この「信心してみかげのなき時」ね、「霊験のなき時はこれぞ不思議なる事ぞ」というここのところの一番大事なところはね、う~ん、「時はこれぞ」というところだと私は思うですね、「霊験のなき時はこれぞ」ここんところが一番大事なところだと思う。
とばにも書いてありますように、このみ教えを素直に、この頂くというところ、ね、「本当におかげを受けられるじゃろうか」と疑わず思わずにです、ね、それを本当にそのまま素直にまず頂こうという、気にならなければいけない、え~、ところがその、おかげが受けられん、「時はこれぞ」ということは、ここんところに信心の追求と言うか、反省があると思う、ね、何の稽古でも同じでしょうけれどもやはり追求心というものがなからにゃいかん、「どうしてどうして」というのです、ね、子供が、あの、3・4歳になりますと、何でも「これは何ね、これは何ね」て聞くでしょうが、ね、「それはどうしてね」と、「それは何ね」と言うて聞く、あれはその物を覚えようという、その、意欲になれておるからですよ、「それは何か何か」と言うて聞くんですね子供が、だから信心さして頂く者が、まず信心、教祖のみ教えを一通り、い~この身につける、いわゆるマスターしていくという、ためにはね、この追求する心がなからにゃいけんです、でないと金光大神の生き方在られ方というものを身につけるためにはどうしてもその、教えを一遍覚えにゃいけん、ね、そんためには「どうして」、そこんところをここんところはですね、指摘してありますようにね、信心して霊験のなき時はこれぞ不思議なる事であるから、ね、「時はこれ」ね、「時はこれぞ」というところ、ね、そこに一第不思議を感じさしてもらう、いわゆる神様を絶対なものとして頂いての、態度、姿勢ですね、まあ、他の事、その事についての御理解はとばに書いてある通りですから、特にあの、いわゆる中、その中に、合楽流に表現してあるところがありますがね、ここは大変、え~、見やすい言葉で表現してありますけれどもまあ言うなら難しいところですから、もう一遍お話しをいたしますとね、え~、我も人も、みな物全てが刻々に変って行き、行く時の流れの中で、全ての事柄がおかげになっておるのである、あるから、自然の働きをね、成り行きを大事にしてと言うかね、自然の働きを大事にしながら、しかも実意を持って、お礼を申しておらなければいけん、お礼、申していかなければならん、言うならば、「お取り次ぎを頂いて」と、ね、お取り次ぎを頂いたら皆分からんのだけれども、もうお取り次ぎを頂いたそこからね特別な働きが始まるですよ、ね、ですからね、もうそこから実意を持ってお礼を申し上げる心が必要だという、ね、それは、もう刻々に変って行く時の流れの中で、全ての事がおからっ、おかげにおかげにと進んでいっておる、ね、人にものを頼む、ね、ね、まだ頼んだのが結果としては、おかげ、おぉその、自分の思いになっていないでもです、その人がそのために一生懸命努力して下さっておるのだけは間違いないでしょうが、ね、人間の場合でも、ですから、(?)には、「どうもおご苦労かけよります」と言うて実意を持ってお礼を言うと同じ事、ね、お取り次ぎを頂いて、神様にお願いをしたら最後、もうその場から特別な働きが始まっておるのであるから、「っとにご苦労様でございます」「有り難うございます」というそのお礼が、しかも実意を持ってなされていきよらにゃいかんですね、この辺のところがまあ大事なところですね、ね、そしてその、お願いをしてもらいよる、言わば、そういう働きを頂いて下さってあるのだけれども、言わば、霊験がそこに現れないといけん、ね、そん時はいよいよ不思議な時ですから、その、その事をね、これを、その時こそ私は「これは可笑しいぞ」と思わにゃいかん、ね、そして「自分の頼む姿勢というものが間違ってりはいないか」「願う態度が実意を欠いでおりゃせんか」「あまりにも我が身勝手なことじゃないだろうか」まあ色々に工夫してみなきゃならない、ここの工夫が大事なんだ、そこがいわゆる追求なんだ、ね、同時にまた反省なのである、「なるほどこういう心掛けじゃいくまい」と、というようにですね、自己の自己反省、だから「時はこれぞ」というところがこの御神訓じゃ一番大事なところであると私は思うです、ね。
教典をここんところを頂いてから開かして頂いたら、これはまあ、お道の教師に下さったような感じですけれども、これは皆信心する者が頂かなければならんこと、そしてそこにおかげの受けられない元をですね、はっきりここに指摘してございます、御理解のね、93節94節95節96節、これはもう全てね、「こんなことじゃおかげは受けられんぞ」ということを指摘、だからそこんところを分かろうとせず、見ようとせず、改まろうとせずしては、おかげにならん、まぁだ他にも沢山ありましょうけれども、ここにずらっと指摘してあるところだけを、まあ読んでみましょうかね、
93節のですね最後のところに、「人間は皆同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ」とこうおっしゃる、「ははぁ~この一事だけでも自分がおかげ頂かんはずだ」と例えば思う人があるかもしれませんですね、人を軽う見る、いわゆる見下したり、ね、様子が良かりゃ大事にし、様子が悪かりゃそれを見下したり、粗末に扱うたりする、「はぁこれだけでも自分なおかげ頂けんはずだ」とやはり気付いたら、ね、人間は神の氏子としての、一視同仁としての見方がなされなきゃならん、またそれに、扱い方が出来なきゃいけん、ね、これは、これは不思議な事ぞとこう思う、それはどこ、そこんところをまあ指摘してあります、94節もやはりそうです、これなんかはもう間違いなしに、お道の教師に下さっておる感じですね「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ」という風に教えておられる、なら例えばお供え物をどんどん持ってくる信者を大事にする、お供えもな~んも出けんとお粗末にする、「そげなことでは、お前は助からんぞ」いや「人は助からんぞ」と、指摘しておられます、それこそ「時はこれぞ」というとこはここなんだ、ならこれはお道の教師だけのこっちゃありませんよね、うん、自分に都合の良か人だけには何ぼう言う、ね、自分にはちっと都合の悪かと思うたらもうそれに冷たくあたる、ねそういう、なら「これだけでもおかげは受けられんなっ」と、まあ言うなら悟らにゃいかん、ね、ただ「これぞ不思議なる事ぞ」ばただ繰り返し読んどっただけじゃつまらん、本当にそこに不思議を感じて、ね、「なるほどこれではおかげの受けられんのが当たり前だ」ということを一つ分からにゃいかん。
95節もやはりそうである、「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まん、商法にしてはならぬ。」と、ね、お初穂をここへ包まなければお取り次ぎはしてやらん、「もう銭金じゃ拝まん、此方は、問題は人が助かることさえ出ければという神心を持ってしなければ、人は助からんぞ」というわけである、ね、ところがその銭金、銭金で拝みよる、ね、こういう事では取り次ぎ者としての資格はない、人は助からんというわけである、ね。
それからこの96節なんかも、その一部を読んでもらうとね、「いかに世の人が顔にかかわるようなことを言うても、腹を立てな、」とある、「神が顔を洗うてやる」とおっしゃるその、ね、自分に分が悪い事を言われるとすぐ言い訳をする、自分の顔を立てようとする、腹を立てる、ね、とにかく神様だけがご承知の世界に生き抜かせて頂いておる私達だから、ね、自分の顔に泥をぬるような事を言うても、かかわるような事を言うても、「金光様金光様」で腹を立ててはならんというのである、自分のすぐ腹を立てる、自分はすぐ言い訳をしようとする、「なるほどこれでは、これだけでも自分は助からんな」と、まぁだ沢山ございましょう、けれどもね、まあここに今日私が頂いたところ、93節から96節のその一節を、読まして頂きましただけでもです、ね、おかげの受けられん元がそこにあるのがございます。
昨日の朝の御理解の中にここぞ金光教の信心の、まあ独壇場的なところをお話し申しましたですね、金光大神取り次ぎの道の働きというところを、ね例えてうんなら今日の御理解を申しますと、例えばそういうような今私が申しました、指摘されたようなところをです、改まりも出けていない、出けてもいないのだけれども、ね、不思議とおかげを受けておると、いうのはね、それは金光大神の働きによるもの、金光大神のお取り次ぎの働きによるものなんだ、天地の親神様が金光大神に対する御信用、ね、言うならばお金を借りるのに金光大神という、ね、絶対無比の、言わば、保証人を立てておるようなものであるから、神様がおかげを下さってあるのでございます、ね、ね、そういうような話しでしたね、昨日朝、ね。
信心してみかげのあるを、ない、みかげのなき時はこれぞ不思議なることぞという、その、そこんところを素直に信じて、「これは自分のおかげが頂けれんのは、どこにそういう間違いが自分にあるのじゃなかろうか」と、ね、ただ「神様のご都合じゃろう」と言うだけではなしに、そこを追求していき改めていくということ、そして「なるほどこの一事だけでもおかげが受けられないはずだ」と改まるところを改まらしてもろうてです、ね、神様へいよいよ、実意を持って、縋って行かなければなりません、ね、それでも人間生身のことでございますから、どこにお粗末やら御無礼やらあるやら分かりません、そこんところを平に平に、また実意をもってお詫びをさして頂く、ね、そこに例えば出けてはいなくても、詫びれば許してやりたいのが親心じゃという、親心としての働きがおかげになって現れてくることにもなる、ね、おかげの現れる色々な、そこに様相というものがあるですね、「はぁ分かるところが分からしてもろうて改まったら、もう手の平を返すようにおかげを受けた」という事実、この実例は、沢山皆さんも体験しておられることだと思うね、これぞ、「時はこれぞ」というところを大事にされたわけですね、そしてまた気付かして頂いて、「本当に私のようなお粗末御無礼者、おかげの頂けれるはずがないもんね」と、それでも縋らなければおられない、その切実さをです、心から詫びて詫びて詫びぬかせて頂くところの信心、いわゆるお詫びによって頂いていくところのおかげ、ね、ここに信心がいよいよ謙虚になってくる、本当なことを言うたら、ね、「神様の前にお詫びをせんでいい」というて言う人があるはずがない、ね、そういうように私共は不完全なのだと、ね、いわゆる自分を追求して行きよりますと、そこんところが分かる、教えを追求して行きよると、「はぁここがおかげを受けられん元」ということが分かるように、ね、自分自身を反省し、そこを追求してまいっておりますと、「はぁぁ本当に相すまん」という「お詫びより他にない」という、そこんところに謙虚な信心者の姿が段々出けてくるわけですね。
先日、う~ん、まだ久保山先生が御在世の時分に、自分の娘であります和子さんに、東京におります、に、その自分が「ここが信心の大事なところぞ」といったようなことを書き留めておられるものを送っておられたんです、それをあの今度公子さんが借りてきてから、その忘れとったっち言う、それが、こういう一冊にまとめてから書いてございます、もう見事に奇麗に、これは久保山先生の「信心はこれだ」と、「ここば」という、ああして、ごっ、修行しておられるその中に自分が感じられたところを、その書き留めておられるのですね、そこんところを私今日、今開かせてもらったら、丁度今日の御理解に関連するような、まあところを頂きますから、そこを一つ読んでみましょうね。
「神は助けたいと思われる、助ける力を十分にお持ちである、自分、自分は助かりたいと思う願いは十分にある」ね、神様は助けたいと一生懸命思うておられる、また助けられる力も十分に持っておいでられるんだと、うんなら信者私共もです、ね、助かりたいと願う心を十分にある、助かりたいという心は十分にあるという、ね、「それが、おかげが受けられるのは自分に助かる、助けてもらう力がないからだ」と悟っておられるわけです、ね、ですから助けてもらうにも力がいるということが分かるです、ね、例えて言うならばここに、まあ溺れておる人があるとしましょうか、ね、それを船を漕ぎだして助けていく、にまあ行ったとしましょうか、ね、ところが着物のまんま落ちこんどるもんですから、さあこうやって助けて下さりよるけれども、着物の重みと言うかね、もう疲れ果ててもう船びれまで手をかけたのだけれども、その自分の重みで上に上げられない上がられないといったような、もう一押し、もう一力というところで、おかげを受けられないといったようなことがあると思うですね、こういうところたしか、確かにそうです、神様助けたいという思いを、いや助ける力を十分に持ってござるのだけれども、こちらに助かるための力がない、ね、迷う、疑う、ね、挫折する、辛抱が足りない、というようなところがそげんとこじゃないか、と思うですね、「そこを金光大神に受けて頂けば、もう指揮がない」今私が申しますところですね、そこんところをです、ね、金光大神のお徳にお縋りするのだと、「これは神様にお願いをしつっ、お願いをする必要はない、これからは生神金光大神に縋れば良い」と言うておられる、これからは生神金光っ、これからは取り次ぎの金光大神にお縋りすれば良いとこう言うておられる、ね、それから次ぎにこういうようなところ、
「金光大神のことは忘れても、先生を拝め、御飯の時も、夜休む時も、先生は頂かれたであろうか、もうお休みになったであろうかと、先生の事を思い出す、その心が先生のところに、思い出す、これが一番おかげを受ける大切なことである」とも、もう一段そこんところを掘り下げておられるようですね、私共では神様から、神様は十分に助けたいと思うておられる、力を持ってござるけれどもこちらに助かる力がない、そこで金光大神に縋れ、これからはもう神様ということはいらんぞと、「金光大神助けて下さい」と言やぁそれで助かる、金光大神のお徳にお縋りするより他にはない、さあところが、さあその金光大神という方は、言うなら百年なら百年も前の方であって、実感として自分の心に通うてこない、そこでもうここ次には、「もう金光大神のことは忘れたっちゃ良かけん、親先生のことだけは忘れるな」と書いてある、ね、そして、ね、休まれ、「自分が休む時には、「もう親先生はお休みになったであろうか」と思えと」とこういう、「今日はお食事はもうおすましになったじゃろうか」と、「自分達はこうやって楽々と休ましてももらいよるが、御飯食べさしてもらいよるが、親先生は御飯召し上がったじゃろうか、もうお休みになったであろうか」とそういう思いを親先生に通わせる」ね、「これが一番おかげを受ける大切なことである」と書いておられますですね、そして昨日頂いた御理解、今日の御理解のところを、ね、おかげを受けていく様々な一つの様相というものが、様々な形に現れてくる、ね、私共が「これぞ不思議なることぞ」と、ね、ここだと、ね、おかげの受けられない時は、一つ本気で自分自身の心の上に追求をさしてもらい、反省をさしてもろうて、「ははぁこういう見やすいことですらが自分に改まりが出けていないんだものね、ここを一つ改まらしてもらわにゃん」というようなことによってです、今までおかげの受けられなかったおかげがスッとこう頂けてくる、いわゆるおかげを頂く力が生まれたのだ、ね、それでもなおかつ力が足りないところは金光大神のお徳に縋れとこう、ね。
これは、非常に御ヒレイの立つ教会なんかでは、皆あの信者さん方がね、「神様のおかげで助かった」と言う人はないです、特に甘木の初代のおられる時分あちらの信者さんなんか皆そうでしたね、「親先生のおかげで親先生のおかげで」て言うとったんです、だからぜっ、そういうような親先生と信者との間に密接なものが通うておるなら絶対助かるです、ね、東さんが言われるように「豆腐いっちょ作らして頂いても、」戦時中に豆腐やらなか時、自分方豆腐を作った、そしたらそれをとにかく「さあ親先生んとこ早よ持って行け」と言うてその、持たせたとこういうのである、ね、親先生の事を話されよるといつも涙が生まれる、ね、「親先生」と言うただけで胸が熱うなる、ね、もうそこにはね、金光大神もなからなければ、神様もない、あるものは親先生だけ、その親先生、その人が金光大神に通うてござる、天地の親神様に通うてござるのですから、「親先生、親先生」で助かるはずですがね、そうでしょうが、甘木の安武松太郎という先生が金光大神に通うてござる、天地の親神様に御信用を受けてござる、だから信者が「親先生」と言やぁ助かるはずだと、久保山先生もここんところを悟っておられるのだと私は思うですね、「神様のおかげ」と言う所では御ヒレイが輝かん」とさえ言われております、「親先生のおかげで」と、言うほどにそこの例えば親先生がお徳を受けておられると、まあ私共の場合はそれが出来ませんから、ね、「神様に縋りなさい」「金光大神に縋りなさい」、そして改まらして頂きなさい、と皆さんにおかげを頂く力を私は要求するわけなんです、ね、私に力がないから、ね、それでも、それでも力のない私にでも、久保山先生が、ね、「親先生はもうお休みになったじゃろうか」「もう今日お食事をおすましになったじゃろうか」と、ね、それを、久保山先生は一家の上におかげを受けてこられたと、力のない私でも、そういうこと、そんところを感じ悟っておられるということをこの中から感じられる、ね。
今日は昨日の昼の御理解のね、説きえていなかったところ、それ特に、「時はこれぞ不思議なることぞ」という「時はこれぞ」という、いわゆるここんところをですね、私共は、あ~、もう一遍頂き直さにゃいかん、ね、そこに不思議を本気で感じさしてもろうて、本気で、え~、自分、どこにおかげの受けられんもとがあるじゃろうかと追求さしてもろうて、ね、それを発見する時の喜びはまた格別、「はぁここじゃった、これが分かってなかった」「このくらいなことすら出けていなかった」とそこを詫びて改まっていくところにです、なるほど、みかげのないということは不思議なこと、ね、受けられんはずはないという、確信がいよいよ持てるわけでございます。 どうぞ。